どんな道をどんな風に進むかは、

本当に人それぞれだなあと、よく思います。

 

私が受け取っているメッセージと

その人がはまっている迷宮とが

あまりにも違う場合、大抵、私は口を閉じます。

今、それを伝えても、否定して、できない理由をたくさん見つけてしまって、

それがさらに遠のくことが分かっているから。

それは、僭越というものです。

宝物の場所の場所を教えても、意地を張って取りに行けなくなるのです。

宝物を受け取るには、それなりのプロセスが必要なのです。

 

本人も私も、社会的にも

「それは良くないことが起こっている」と共通認識があることでさえ

大いなるものの意図は、いつも次元を越えていて異なっている。

だから、本人がそれを気づきそうになっているときや

ヒントを得ようと真剣に向き合えるときだけ、

私は、わたしのできる範囲で、こちょこちょとお手伝いしています。

そうでないときは、時が来るのをグッと待ちます。

相手に見える光をただ信頼し続けることと、

フラクタルな作用のために私を癒やすことが

近道だと実感しています。

 

私たちには、失敗する自由があります。

やってみて、

いろいろやってみて

うまくいくときもあるし、

うまくいかなくて、初めて智慧を使うという手段を取れる。

トンネルの中で、あれこれ動いてみる自由が、

私たちにはあります。

 

私が注意深く見ているのは、

トンネルの中で見える光のレベルなのだなと感じています。

それこそ、私自身の様々な失敗を通して分かったことは

そこに人為的な作用があると、

いいところまでいくけれど、結局は望むところには辿り着かないということ。

光であっても、本物とは別物なのです。

 

 

本当に学び始めたら、

誰かのお手伝いは借りることができても、

誰かからもらう光はあなたのものになりません。

一歩先行く人は、先輩であり、同志であり、

あなたはそのおこぼれをもらっていても、本当のことは見えてこない。

自分自身が大きな光と繋がり、学んでいく必要があります。

 

自分に力が無いなどというのは嘘です。

私たちは、全員に力があり、巧妙な嘘を完全に信じているだけです。

自分のアンテナを信じ、それを磨いていくことで、

自我の手練手管に引っかからない瞬間を増やしていくことができます。

 

 

大いなるものと、あなただけしかいません。

私たちはあなたの分身です。

あなたが対峙し、あなたが選択し、あなたが光を思い出すだけです。

一人では難しいときに、

私たちの繋がりがそこで初めて役に立ちます。

 

私たちの場所からは確かに全容は見えないけれど、

全部が完璧で、うまくいっていることを、理解していけますように。

 

 

昔は熱心にSNSを見ていたし、投稿もしていたのです。

それがパタッとやんだのは2年くらい前か、もしかしたらそれ以上経つのかもしれない。

今や私にとってFacebookは連絡手段となっていて、

たまに閲覧するけれど、個人的なことを発信しなくてもいい気持ちがまだ続いています。

私の承認欲求が希薄になったことと、

役に立ちたい気持ちがなくなったこと、

吐き出したいことがなくなってきたこと、

それから

承認されるシステム(とその罠)に飽きてきたからではないかと思っています。

 

誰かと分かち合うことの美しさはよく知っているし、

どの瞬間もその美しさについて思うと、胸が震える気持ちになる。

大勢と分かち合える瞬間は光が場を満たし、

世界に拡がっていくのが本当に見える。

それは素晴らしい瞬間で、

立ち会えると確実に進むことが実感できて幸せな気持ちになる。

なるよね?

なります。

共に進む誰かが居てくれることは、私たちの勇気になる。

それは確実なことです。

 

けれど、どの人にも、ペースやタイミングがあって、

みんなと分かち合えるとは限らず、

できれば、それぞれのその瞬間も尊重したいと思うのです。

一見良くないことが起こっているように見えたり、

後退しているようなときでも、

いつだって、それは本人にとって、必要なことが起こっています。

安易に引き上げたりせずに、本人が選択できるようにサポートするくらいしか道はない。

だって、それは用意されているのだから。

 

さらに目の前の人を尊重し続け、

分かち合えなくても、私は幸せでいたい。

常時幸せを保つことが、私の役目であり、大きなチャレンジでもあります。

 

良いことを拡げなくても、拡がらなくてもいい。

エゴがベースである限り、私たちはこの世界が必要で、

悲劇は、エゴによる分かち合いがいくら広まってもなくならない。

真実を分かち合わない限り。

 

 

ということで、

SNSをやめてから、私はさらに自分の人生を使った個人的実験を

さらに進めているけれど、全然飽きる気配がありません。

というか、分かち合うことも、個人的に進むことも同じことなのだと分かってきました。

私個人の精神を統合することは、分かち合って心を一つにすることと同じ。

すべてはフラクタル(相似型)で、

それぞれの役割を担っています。

個人的な分かち合いは、

自分の個人セッションか、

マニアックな仲間とか、

オーガナイズしている大きな分かち合いの場か

とあるディープなカフェカウンターがメインになっているけれど、

私は途方もなく、幸せな感じです☺

 

私が、誰かを

人為的なコントロールでサポートしないように、

いつも、不純物のないエネルギーで見ていけるように、

日々、訓練し、さらに進んでいこうと思っています。

 

それらは、能力ではなく、訓練であり習慣なので、

実は誰にでもできますが、またそれはおいおい。

 

個人的な進化を、私たちみんなが進めていけますように。

今日も美しい日になりますように!

 

 

昔は、敏感さは自分の好きなところでした。

鋭く理解したり、響くように反応することは、

自分を満足させるスキルの一つだったのです。

今でもそのスキルは役に立ってくれるときもあるけれど、

むしろ、どう反応しない自分でいられるか、に今はチャレンジし続けています。

 

〈鈍感力〉というと、なんだかちょっと違う。

〈無反応〉はもっと違う。

便宜上、「スキル」と説明しているけれど、

【反応しないこと】は「目的」では無く、

あることを選択すると生まれる状態であって、

反応しないように努力したり、

そのスキルを身につけるように訓練するものではないのです。

 

むしろ、

自分が機敏に反応してしまうか、

反応せずにスルーできるか、

を観察することで、

今の自分の状態を理解できます。

反応の有る無しは、リトマス試験紙のようなもの。

 

釈迦が、悟りを得ようとするとき、

悟りを開かせたくないエゴ(魔王)が、

美しい娘として彼を誘惑しようとしたり

大軍となって彼に矢を放ったりする逸話はとても有名だけれど、

彼は、見るものが「リアルではない」ことを深く理解していたために、

エゴの幻想を退けることができたと言われています。

 

この逸話だけ聞いたり、映像で見たりすると、

ファンタジー上のことだと思ってしまうけれど、

私たちは釈迦が体験したことを

実は毎瞬試されています。

私たちは全員、悟りに向かう修行者なのです。忘れているけれど。

 

 

私はまだ反応します。

自分がひどく失敗してしまったとき。

痛みを伴う病気の時。

事故が起こったとき。

 

それでも随分、過敏に反応することは少なくなったし、

反応が起こったとしても、元の自分の軸に戻れるようにはなってきました。

しかしエゴのあがきはまだまだ半端なくやってきます。

瞬間瞬間の選択あるのみ。

これこそが、私がするべきことなのだと実感する日々です。

・「YES」ボタンを毎瞬自分が押しているかどうか?

・この行動は「YES」ボタンを押したうえでの行動なのかどうか?

それを意識することが

私たちの課題になっているのです。


 

 

「反応」という言葉とその概念を聞いたのは、

21歳の時でした。

あの時、師匠は私くらいの年齢で、

私はそれを知識として素直に受け止めたのでした。

そこから、何層にも渡って、理解が進み、

これからもさらに理解が進んでいくのだと想像します。

 

「何がリアルで、何がリアルでないのか」

 

何を言ってるの?

自分の見ている世界こそが現実でしょ?

 

と普通思うだろうけれど、

リアルな夢と今の現実と、

何が違うのか、きちんと説明できますか?

ニュースの映像が、映画と違うと証明するために、私たちは動けるけれど、

全ては「自分の実感」=「真実」という構図が崩れたら、

崩れるくらいもろいものだと私は理解しています。

「『セクハラされた』という人が居たら、セクハラは成り立つ」、みたいな

真実とは実は不確かなものなのだと、どれくらいの人が分かっているでしょうか。

 

 

自分自身が

〈愛〉を選んでいるのか、

〈罪悪感〉を選んでいるのか、

いつも、覚醒した意識で見ていることが必要になってきます。

リアルを本当の意味で、いつも感じていられるまで。

 

 

コロナ渦で、今は

たくさんの恐怖や不安をたくさんの人と直面しているけれど、

これは本当にリアル?

エゴによる、大軍の矢と変わらないのでは?

釈迦ならどう見るだろう?

白隠和尚なら、どう発言するでしょうか。

 

 

私たちのするべきことは

〈反応する〉ではなくて

〈反応せずに、ただそこに居ること〉かもしれません。

見えているものを無いことにして

無謀にデタラメに自由にすることを推奨しているのではありません。

その見えているものがリアルではないと理解して

それを生み出すシステムについて学んだり、

自分自身を観察するときではないかと思うのです。

スルーする技術を学ぶには、

今はいいトレーニングになると思いませんか?

 

実はシンプルに、

ボタンは2つしかありません。

今この瞬間、自分がどちらを選んでいるのか。

 

自分の反応を見れば、

それが分かるようになっています。

 

 

 

 

あなたの今のその行動は

愛からですか、罪悪感からですか。