家族との関係性で問題を抱えている人はたくさんいます。

問題というほどのものではない小さな不具合だったり、

人生がそこで止まってしまうくらいの大きいものだったりします。

私は、人生がそこで止まってしまうくらいの大きな確執でした。

なにしろ、生まれてから家出をする19年間だったのです。

両親との問題を解決するまで、そこからさらにかかりました。

とても骨の折れる作業で、なんども諦めかけましたが、

自分の進むべき道は、そのチャレンジなしには進まないような気がしていて、

向きあってきたことを思い出します。

 

ただ、

そこまでの、いわば、自分の人生に立ちはだかるくらいの傷でないのなら、

あなたのチャレンジは親というカテゴリーには無いのかもしれないと思っています。

チャレンジのない人生なんて、

味の無いジャムくらい「なんのために?」と不思議に思うくらい

つまらないものなので

(まあ、本人はその時大変な苦労をしますが)

あなたのチャレンジを自分でどこに置いたのか、

今分からなくても追い追い分かるようになっているし、

そこは、その時が来たら、

「取り組んでみる」(もちろん休憩や逃避時間あり)

一択がお勧めです。

私たちはそのために来たのですから。

 

 

話は戻って、

両親との確執の昇華に、かなり時間をかけた私ですが、

今の私にとって

私の父親・母親は、肉体をもらった父母ではなくなってしまいました。

両親は健在なのですが、

彼らと居ても、本当に言葉通り

「肉体をくれた、肉体の両親」という感じなのです。

彼らを尊重し、愛していますが、

完全に彼らからもらった幻想とは違う位置で自分が見ている感覚なのです。

《両親》というものに抱いていた私の幻想は、今はすでになくなって、

彼らに求めることは全くなくなり、

だからこそ、とてもいい感じでいられるような気がします。

気楽で、敬愛を込めて付き合え、無理難題も深刻に取り合ったりせずに済みます。

 

私の本当の両親…というか、親は

彼らではないという感覚が今では私の中にあります。

ネイティブアメリカンの世界では、

母なる大地、父なる空、祖父なる石、祖母なる月…と、祈るのですが、

その感覚にとても近い感じです。

私の感じる親は神でも愛でも光でもあるので、

それぞれに分かれてはいませんが、

そこここに慈しんでくれる親はいて、

私にエネルギーを注ぎ込んでくれていると感じるのです。

それを感じられるのは、私が受け取れる状態を持続しているときですが。

(もちろん、うまく受け取れないときだってあります)

 

 

そこがうまく感じられるようになって、

「これほどの愛を、肉体の両親に求めていたということだな、私は」

と気づいて、愕然としました。

そりゃ、無理でしょう。

無理難題です。

エネルギー量的にも、愛の深さ的にも、エゴ的にも。

ただのクラスメイトに

「親になって私に愛情をください」

というくらいの無茶ぶりでした。

今思うと、ほんとすみません(笑)

そういう配役だったとはいえ。

子どもに生まれた私は、「誰に」「何を」求めるの部分を誤解していたのです。

それは、私のファンタジーを修正するために必要な幻想でした。

理解できるのに、こんなにも時間をかけてしまいました。

(私には体験すべきチャレンジでしたが!)

 

親との関係性に取り組んでいる人はたくさんいます。

取り組むべき価値があります。

親は、実は自分自身の投影であり、

赦すということを学ぶ、一番近い存在です。

そのチャレンジがある人に対して、私は心から応援するし、

支援もしていくつもりです。

取り組む勇気を、深く深く尊敬しています。

 

と、同時に、

その取り組みがある程度進んだら、もしくは平行して、

本当の親について、学んでいくというのがいいように思っています。

肉体の親は、あなたの幻想を実現してくれるとは限りません。

肉体の親も尊重すべき大切な存在ですが、

それと同じだけ、

スピリットの親も思い出していく必要があるのです。

 

あなたが、どこから生まれて、

誰に育てられて、

どこへ還っていくのか。

 

 

 

 

目に見えるものがすべてではありません。

実在しているように見えるものも、肉体をもつものも、

実は不確かなものかもしれませんよ?

 

オカルトでも新興宗教でもない

本当のことは、あなたが確かめ、感じていくしかないのです。

あなたの軸を定め、感じるセンサーを磨いていくには、

練習が必要です。

 

調べものをしている途中で、

山田圓尚氏によるデニス・バンクス氏のイベントの古い記事を読みました。

http://blog.7gwalk.org/?eid=1262629

 

「皆さんのお名前と職業を教えてください。

もしも

母である場合は、そのことを自信を持って伝えてください。

すべての職業の中で

『母』という役割が一番尊いと思っています」

 

と、彼が話した言葉が書かれてあって、

それが心に残りました。

 

私も

母親という役割が一番尊いと思っていたのですが、

ここ10年近く、あまり声高にそう言わなくなった自分がいました。

希望があっても結婚が叶わない女性がいたり、

子どもを持てなかったりする女性が身近にもいることを理解して、

彼女たちへの配慮と、

母親でない女性への敬意を表そうと考えてきました。

実際、彼女たちの役割は、母親という役目と変わらずに大きく、

彼女たちの存在は、自分のことのように大切に思っていて、

そして深い尊敬の対象でもあります。

彼女たちでないといけないことが、確実にあるのです。

子育ては母親だけのものではなくて、地域の、国の、世界のものだし、

子どもは、個人のものではないからです。

すべての子どもは、私たちの子どもです。

 

それでも、

実際の子育ては本当に途方もなくて、

子どもを持つ女性は、相当の体力と選択肢と悩みを常に抱えます。

子どものいない女性と子育て中の女性の間にも

実は見えない壁があります。

子育ての労働力は、本当に(自分で言うのもなんですが)

最大級の価値のあるものだと感じます。

けれど、一口に「素晴らしい」とは言ってしまえない。

なにしろ、

24時間、湧き出す愛情に包まれたい子どもたちが側に居るのですから。

 

 

母親は鍛えられ、疲弊します。

自分の力だけでは持たないことを理解します。

自分の傷が障害になっていることも理解します。

自分の無力さを痛感し、罪悪感にさらされます。

大きなチャレンジですが、

子育てはまさしく「愛の仕事」なので、やるだけの価値があり、

しっかり向き合えば、子どもが育つ以上のことを、受け取れます。

自分の成長だったり、他者への信頼だったり、

自分の常識の崩壊だったり、愛が循環していくことだったりします。

 

 

どこにでも母親は居ます。

けれど

たくさんの女性に支えられ、

安息のうちに

「私の仕事は母親です」と言える女性はどれくらいいるでしょうか。

もし、「私の仕事は母親です」と胸を張れる母親は、

どんな母親だと私たちはイメージするでしょうか。

自分に置き換えてみると

「そう言うには、ちょっと(自分が)足りない気がする」

という気持ちが心の中にあることに気づきます。

私たちはもっと支えられてもいいはずなのに。

もっと、力を借りてもいいはずなのに。

 

私にはビジョンがあって、

それは、女性のためのセレモニーを開くことです。

その映像は見たので、私が努力しなくても、

ほどけるようにそのビジョンが花開くときが来ると知っています。

(その時のために、学んでいる最中ですが。)

私が見たのは

母親であっても、母親でなくても、

特技がなくても、自信が無くても、どんな女性であっても、

自分を讃え、その存在を祝うセレモニーでした。

 

すべての人に

「あなたの仕事は素晴らしい。尊敬します」

と、讃えられてもいい仕事。

みんなの代表となって、子どもを育てる役割を担う人。

母親は威厳を持ち、もっと自信を持ってもいいと思います。

誰も排除せず、

母親という仕事を知りたいどんな人も、私たちが受け入れ、

一緒に仕事を任せられるようになるといいなと思います。

男性も、若い女性も、子どものいない人も。

 

 

あなたの周りに母親は居ますか?

あなたのお母さんはいますか?

あなたを育ててくれた存在はどんな人ですか?

 

あなたが愛をもらってこれたとしても、

もらってこれなかったとしても、

あなたが、愛を母親たちに使うことで、

あなたの一部は必ず満たされます。

 

 

私たちが、このすべてのバランスに感謝し、

愛を使ってつながっていけますように。

その愛が、子どもたちの糧となりますように。

 

 

世界中の母たちに感謝して。

長くネイティブアメリカンの精神性について学んでいるのですが、

コロナの影響で、さらに自主勉強の機会が増え、

調べものをしたり、英文を訳したり、学びあったりしています。

 

私の勉強しているアニシナベ族の西の方角のメタファーは

黒・バッファロー・祖先・秋・夕時、などなどあるのですが、

いつも不思議に思っていた「祖先と先祖」について調べてみました。

 

ご先祖様というように、先祖は血縁関係のある故人を差し、

祖先はというと、太古の人類の祖先などと、血縁関係の有無を問わず、

DNA的な分類における故人を指すみたいです。

なるほど、勉強になりました。

私はスウェットロッジ(ネイティブアメリカンの再生の聖なるセレモニー)の中で

ご先祖様に祈っているとき、実は祖先に祈っていたのだなあと発見しました。

ちなみに英語では先祖も祖先も、共にancestorです。

 

イマドキ、お墓参りも法事も少なくなり、

祖父母との関係も希薄になっている人もきっとたくさんいると思います。

死がタブー視されているのは、戦争や宗教との関わりもあります。

けれど、肉体を持つ私たちには切り離せない死生観。

コロナのプロセスで、私たちが恐れているのは「死」。

それをどう捉えるか、どう向き合うか、どういう世界観で見かは

今、学ぶチャンスなのだと感じています。

怖がらずに学べば、

「今日は死ぬのにはいい日だ」

(ネイティブアメリカン解放運動リーダーのデニス・バンクスによる言葉)

と言えるくらいの心も持てるかもしれません。

 

 

 

ネイティブアメリカンのancestorは2種類あるそうです。

肉体を繋げてくれた人たち。いわばご先祖様たち。肉体はいつかなくなります。

そして、スピリットとしてのancerstor。こちらは祖先と言えそうな気がします。

そのどちらにも祈る。

死は怖いものではなく、スピリットは決して死にません。

 

死は「無」ではありません。

とても深い話で、心で感じるしかなく、証明することはできませんが。

エゴが作るのは、分かりやすい恐怖としての死であったり、

天国と地獄、といった操作の入った死で、

私たちを現実でも死においても支配しようとします。

もうそろそろ、恐怖に支配されるのではないフェーズに進んでもいい気がします。

 

それぞれ、死ぬまで確かめられないかもしれないけれど、

自分の平安がある死生観をそれぞれに確かめていく機会が、今ここにあります。

あなたが愛を感じる「死」について、

学んでみてはいかがでしょうか。

私がネイティブアメリカンをリスペクトしているのは、

彼らが宗教ではなく、その死生観を

太古の祖先の智慧として受け継いでいるからなのだと思います。