先日、子どもの誕生日プレゼント希望が「本人ご指定の本」だったので、

いろいろ調べていたら、高っ!そして巻数多っ!

そして、最近やたらに転生ものが多い。

子どもが好きなだけかと思っていたけれど、転生ものの題材はとっても増えているように思う。

うーん、これはどういう流れなんだろう〜

と、つい眺めてしまう癖が。

転生して、初めは不自由だけれど、どんどんスキルを得て、困難に打ち勝ち、万能になっていく感じ。

わりと共通している気がする。

私たちの無意識の願望なんでしょうね。

 

ファンタジーで楽しんでいるのだから、それはそれでいい感じがします。

ただ、にやりと笑って、

「実際に、転生(のような体験)はこの人生でもできるんですぜ」

と、こっそり伝えたくなるのです。

「ファンタジーでだけ楽しまずに、実際にやってみるのはどうかね?」

と、どこかの教授が不敵な笑みをこぼしながら、煽るように

ちょっと語りかけたくなるのです。

 

私たちは

何度でも生まれ変われるし、

何度でもやり直せるのです。

いえ、ただの自己啓発論ではなくて。

 

自分のファンタジーを作れば作るほど、それをまた生まれ変わってやってみなくてはならなくなる。

この人生で、何度も生まれ変わって、やるだけやってしまって、

転生のループから抜けるとか、どうでしょう。

そのためには、万能になりたくなるのは「エゴさん」の欲求だと知ることになるんですけどね…

 

出会いのおかげで私は

生と死のワークを繰り返し何十年も体験してくることができました。

人間には脱皮し、生まれ変わる力があることを実際に理解しています。

ファンタジーを読むのも面白いけれど、

あなたがどんな生まれ変わりをこの人生の中でしたのかの方が興味があります。

もし、この窮屈で不自由で、苦しいところから脱皮したいというなら、

そのチャンスを手助けする一つになれたらいいなあと思います。

 

知っていますか?

羽化する前のサナギの時期、

サナギの中身は青虫→蝶の間のような形ではなく…、

ドロドロらしいですよ。

 

 

 

私たちは次のステップの前には、一旦その形から出て混沌とした時期が必要なのかもしれません。

あなたは、もしかして、

今、変容中ではないですか?

あなたのストーリーを聞かせてもらいたいです。

 

どんな道をどんな風に進むかは、

本当に人それぞれだなあと、よく思います。

 

私が受け取っているメッセージと

その人がはまっている迷宮とが

あまりにも違う場合、大抵、私は口を閉じます。

今、それを伝えても、否定して、できない理由をたくさん見つけてしまって、

それがさらに遠のくことが分かっているから。

それは、僭越というものです。

宝物の場所の場所を教えても、意地を張って取りに行けなくなるのです。

宝物を受け取るには、それなりのプロセスが必要なのです。

 

本人も私も、社会的にも

「それは良くないことが起こっている」と共通認識があることでさえ

大いなるものの意図は、いつも次元を越えていて異なっている。

だから、本人がそれを気づきそうになっているときや

ヒントを得ようと真剣に向き合えるときだけ、

私は、わたしのできる範囲で、こちょこちょとお手伝いしています。

そうでないときは、時が来るのをグッと待ちます。

相手に見える光をただ信頼し続けることと、

フラクタルな作用のために私を癒やすことが

近道だと実感しています。

 

私たちには、失敗する自由があります。

やってみて、

いろいろやってみて

うまくいくときもあるし、

うまくいかなくて、初めて智慧を使うという手段を取れる。

トンネルの中で、あれこれ動いてみる自由が、

私たちにはあります。

 

私が注意深く見ているのは、

トンネルの中で見える光のレベルなのだなと感じています。

それこそ、私自身の様々な失敗を通して分かったことは

そこに人為的な作用があると、

いいところまでいくけれど、結局は望むところには辿り着かないということ。

光であっても、本物とは別物なのです。

 

 

本当に学び始めたら、

誰かのお手伝いは借りることができても、

誰かからもらう光はあなたのものになりません。

一歩先行く人は、先輩であり、同志であり、

あなたはそのおこぼれをもらっていても、本当のことは見えてこない。

自分自身が大きな光と繋がり、学んでいく必要があります。

 

自分に力が無いなどというのは嘘です。

私たちは、全員に力があり、巧妙な嘘を完全に信じているだけです。

自分のアンテナを信じ、それを磨いていくことで、

自我の手練手管に引っかからない瞬間を増やしていくことができます。

 

 

大いなるものと、あなただけしかいません。

私たちはあなたの分身です。

あなたが対峙し、あなたが選択し、あなたが光を思い出すだけです。

一人では難しいときに、

私たちの繋がりがそこで初めて役に立ちます。

 

私たちの場所からは確かに全容は見えないけれど、

全部が完璧で、うまくいっていることを、理解していけますように。

 

 

昔は熱心にSNSを見ていたし、投稿もしていたのです。

それがパタッとやんだのは2年くらい前か、もしかしたらそれ以上経つのかもしれない。

今や私にとってFacebookは連絡手段となっていて、

たまに閲覧するけれど、個人的なことを発信しなくてもいい気持ちがまだ続いています。

私の承認欲求が希薄になったことと、

役に立ちたい気持ちがなくなったこと、

吐き出したいことがなくなってきたこと、

それから

承認されるシステム(とその罠)に飽きてきたからではないかと思っています。

 

誰かと分かち合うことの美しさはよく知っているし、

どの瞬間もその美しさについて思うと、胸が震える気持ちになる。

大勢と分かち合える瞬間は光が場を満たし、

世界に拡がっていくのが本当に見える。

それは素晴らしい瞬間で、

立ち会えると確実に進むことが実感できて幸せな気持ちになる。

なるよね?

なります。

共に進む誰かが居てくれることは、私たちの勇気になる。

それは確実なことです。

 

けれど、どの人にも、ペースやタイミングがあって、

みんなと分かち合えるとは限らず、

できれば、それぞれのその瞬間も尊重したいと思うのです。

一見良くないことが起こっているように見えたり、

後退しているようなときでも、

いつだって、それは本人にとって、必要なことが起こっています。

安易に引き上げたりせずに、本人が選択できるようにサポートするくらいしか道はない。

だって、それは用意されているのだから。

 

さらに目の前の人を尊重し続け、

分かち合えなくても、私は幸せでいたい。

常時幸せを保つことが、私の役目であり、大きなチャレンジでもあります。

 

良いことを拡げなくても、拡がらなくてもいい。

エゴがベースである限り、私たちはこの世界が必要で、

悲劇は、エゴによる分かち合いがいくら広まってもなくならない。

真実を分かち合わない限り。

 

 

ということで、

SNSをやめてから、私はさらに自分の人生を使った個人的実験を

さらに進めているけれど、全然飽きる気配がありません。

というか、分かち合うことも、個人的に進むことも同じことなのだと分かってきました。

私個人の精神を統合することは、分かち合って心を一つにすることと同じ。

すべてはフラクタル(相似型)で、

それぞれの役割を担っています。

個人的な分かち合いは、

自分の個人セッションか、

マニアックな仲間とか、

オーガナイズしている大きな分かち合いの場か

とあるディープなカフェカウンターがメインになっているけれど、

私は途方もなく、幸せな感じです☺

 

私が、誰かを

人為的なコントロールでサポートしないように、

いつも、不純物のないエネルギーで見ていけるように、

日々、訓練し、さらに進んでいこうと思っています。

 

それらは、能力ではなく、訓練であり習慣なので、

実は誰にでもできますが、またそれはおいおい。

 

個人的な進化を、私たちみんなが進めていけますように。

今日も美しい日になりますように!