長くネイティブアメリカンの精神性について学んでいるのですが、

コロナの影響で、さらに自主勉強の機会が増え、

調べものをしたり、英文を訳したり、学びあったりしています。

 

私の勉強しているアニシナベ族の西の方角のメタファーは

黒・バッファロー・祖先・秋・夕時、などなどあるのですが、

いつも不思議に思っていた「祖先と先祖」について調べてみました。

 

ご先祖様というように、先祖は血縁関係のある故人を差し、

祖先はというと、太古の人類の祖先などと、血縁関係の有無を問わず、

DNA的な分類における故人を指すみたいです。

なるほど、勉強になりました。

私はスウェットロッジ(ネイティブアメリカンの再生の聖なるセレモニー)の中で

ご先祖様に祈っているとき、実は祖先に祈っていたのだなあと発見しました。

ちなみに英語では先祖も祖先も、共にancestorです。

 

イマドキ、お墓参りも法事も少なくなり、

祖父母との関係も希薄になっている人もきっとたくさんいると思います。

死がタブー視されているのは、戦争や宗教との関わりもあります。

けれど、肉体を持つ私たちには切り離せない死生観。

コロナのプロセスで、私たちが恐れているのは「死」。

それをどう捉えるか、どう向き合うか、どういう世界観で見かは

今、学ぶチャンスなのだと感じています。

怖がらずに学べば、

「今日は死ぬのにはいい日だ」

(ネイティブアメリカン解放運動リーダーのデニス・バンクスによる言葉)

と言えるくらいの心も持てるかもしれません。

 

 

 

ネイティブアメリカンのancestorは2種類あるそうです。

肉体を繋げてくれた人たち。いわばご先祖様たち。肉体はいつかなくなります。

そして、スピリットとしてのancerstor。こちらは祖先と言えそうな気がします。

そのどちらにも祈る。

死は怖いものではなく、スピリットは決して死にません。

 

死は「無」ではありません。

とても深い話で、心で感じるしかなく、証明することはできませんが。

エゴが作るのは、分かりやすい恐怖としての死であったり、

天国と地獄、といった操作の入った死で、

私たちを現実でも死においても支配しようとします。

もうそろそろ、恐怖に支配されるのではないフェーズに進んでもいい気がします。

 

それぞれ、死ぬまで確かめられないかもしれないけれど、

自分の平安がある死生観をそれぞれに確かめていく機会が、今ここにあります。

あなたが愛を感じる「死」について、

学んでみてはいかがでしょうか。

私がネイティブアメリカンをリスペクトしているのは、

彼らが宗教ではなく、その死生観を

太古の祖先の智慧として受け継いでいるからなのだと思います。

正直、

愛について熱く語る人に出会うと、やけどをしない程度の距離が欲しいと感じます。

スピリチュアルについて熱く語る人も同様です。

私は、こんな仕事をしながらも、実はリアリストなので、

悦に入っている人や、欲望をすり替わった形は分かってしまうのです。

その輝きを曇らせるものをスルーして、本人の美しさと出会いたいと思っています。

 

ただ、本人の美しさの中には、必ず愛があって、

そちらの愛とは出会いたいし、響き合いたいと願っているのです。

本人が熱く語る愛やスピリチュアルは、

結構エゴの思考によるものが多いので、

私はその熱気に当てられないようにやり過ごしながら、輝きを探します。

 

私が、セッションで、愛という言葉をできるだけ控え、

言葉を置き換えて説明したりするのは、

私が「愛」を連呼し過ぎて、本当に伝えたいことが伝わらなくなるのを避けたいからです。

愛が答えであることは分かっていて、

答えはいつも、それです。

複雑な問題のように見えるものも、必要なものは愛です。

でも、私たちはそのシンプルな答えではなかなか解決できないのです、面倒なことに。

グレードを落として、置き換えながら、その究極の答えを

受け取れるように成長している過程にいるのだと感じています。

 

私たちが愛であり、光であると言ったら、

どれくらいの人が受け取れるでしょうか。

私なら、胡散臭く感じて、そのページを閉じてしまうかもしれません。

騙されそうな恐れや、洗脳しようとしているのではないだろうかとか、

お金を巻き上げるためなのではないか、

入信のお誘いではないかとか、とりあえず確認作業をしてしまいます。

 

私たちはそれでいて、

愛がないときはすぐに分かります。

レジでの対応、バスの列、友人の一言、家族の目線、パートナーとの会話、

動物への扱い、法案の制定、お金や物の動き。

愛に基づいていると気持ちがいいのに、

ついエゴの誘いに乗せられて、そちらにも幸せがあると錯覚してしまう。

手に入れると、愛が得られるように思ってしまうのです。

 

 

私たちのバランスが取れている時、

自分の中に愛が確実にあることを感じられる。

その時、ようやく思い出せる。

私たちが平和で、心地よく、バランスの中に幸せを感じるとき、

私たちは愛がすでに自分の中に備わっていて、何も損なっていないことが分かる。

奪われることもなく、渇望する必要もないのです。

他から持ってこなくても、私たちは愛で満たされていたことを思い出すのです。

 

ですから、

私たちに必要な作業は、

思い出すために必要な作業をすることと、

平安なバランスの中に居るようにすることだけです。

それさえすれば、

愛を得ようとしなくてもいいことになります。

幸せに向かって、進まなくてもいいことになります。

愛について、熱弁を振るわなくてもいいし、学ばなくてもいい。

私たちは、ただ思い出すために必要なことを学び、

輪の内に心地よく居ればいいのです。

 

自分の中の平和を保つよう、一緒に心がけていきましょう。

輪のバランスの中に私たちが居ることを本当に理解すれば、

私たちは本来の自分の姿に気づけるようになるのだと感じています。

 

 

コロナ過、煮詰まってますね。

いろんな情報が錯綜して、あんまりいい気持ちにならないので、

敢えて情報を取らないようにしていますが、

でも最低限の情報は入ってきます。

この生きづらさ、暮らしづらさは、コロナだけの影響でないよなあ…

と、感じています。

 

そんな折、

我が子が従兄弟と遊びに行っていたと思ったら

この数日、コンビニでおやつをご馳走させていたという

小4にありがちな事件が発覚しまして、

夜遅くまで、本人と話し合いました。

 

私の父親の世代は、

とにかく原因となる人物とその行動を暴き、

悪を断罪する的な指導だったと思いますし、

私もかつては「それはダメなことだ」「悪いことだ」と叱ったりしていたと思うのですが、

長年学んだおかげで、今は違うアプローチをすることができます。

一方的な正悪は問題解決にはならないことを、知っているのです。

 

「おかしが食べたかった」ことは、決して悪いことではありません。

「我慢できなかった」ことも、残念なことではあるけれど、悪いことではありません。

そもそも、誰が悪いのでしょうか?

それぞれに事情があって、それぞれに欲求がある。

その欲求の対応の仕方が、不味いときがあるし、失敗することもある。

それは、本人の本質を「悪い」とすることは、絶対にできないのです。

 

私は

「あなたは、悪くないよ」

と伝えました。

心からそう思って、そう伝えました。

ポタポタ涙をこぼしていました。

 

彼女は、とても頑張り屋さんで、

何でも実行できるパワーと実力を持っています。

反面、傷つきやすさも抱えていて、

社交的な外側に反して、家では気持ちを吐き出したりもします。

「◯◯のせいや」

とプリプリ怒ったりもします。

 

誰かのせいにしたいとき、

誰かを糾弾したいとき、

本当は自分自身を責めていることを知っています。

 

自分のせいだと受け止めきれないとき、

私たちは誰かのせいにしたくなります。

 

「◯◯のせいやって、いつも怒るけど、

本当は自分のこと、悪いと思ってるんでしょ?」

と、彼女に言うと、ずっと静かに泣いていました。

 

 

やり方が不味かったとき、失敗したとき、

自分を悪いと思わないでいいことを、私たちが知っていることが

とても大切だと思っています。

その失敗を責めたくなるとき、

私たちは、自分のことを責めているのだと理解して、

大目に見ると、結局は自分が赦され、解放されます。

私たちの本質に、一点の濁りもないし、罪はない。

その輝きは、絶対に失われないのです。

 

やり方を失敗したと思うなら、修正すればいいし、

自分の心が愛に基づいた、もっと心地いい方法を知っていけばいい。

罪悪感を持たずに済む方法を選択する方が、ずっと人生が幸せになることを

本当に体験すれば、心配しなくても、自ずと修正されていきます。

だって、その方が楽だから。

エゴに支配されない人生を目指した方が、

実はずっとずっと楽なのです。

大目に見て、赦していく方が、人生はずっと楽になります。

それは、放任や無関心とは違う、

新しくて、とてつもなく古い方法です。

 

他人にどう接するかは

自分にどう接するかと一緒だなんて、

概念としては「あー、そうだね」などと思っても、

「実際に、本気でそうなんだ」と、どれくらいの人が理解するでしょうか。

誰かを規制したり、正したり、更生したりすることは

自分を縛ったり、統制したり、改心させることと一緒なのです。

エゴをエゴで正そうとしても、解決にはならないのです。

 

赦していくこと。

失敗はあっても、私たちの輝きには何の損失もないことをいつも覚えていること。

「あなたは悪い」と言わないこと。

 

あなたは悪くない。

 

あなたは悪くない。

 

 

失敗は、修復できる。

 

 

 

子どもが落ち着いてから、

親として、

「次からどうしたいいのか」

私が考えることを、いっぱい話しましたけどね(^.^)

 

 

 

優しい社会を作るために。

自分が幸せに生きるために。

 

子どもたちに伝えていきたいことです。

そして、

子どもたちを取り巻く大人が、実践していければいいなと思うことです。