昨日からようやく、学校が通常授業になりました。

慣れるまでの阿鼻叫喚を思うと、一概に手放しで喜べないのですけれど、

長期間、一人の時間が無かったので、

やっぱり「やっっほーい!!!!」という開放感を感じたのは仕方ありません。

昨日は、用事も取りやめて、一人の時間を満喫した次第です。

 

とはいえ、

通常の学校生活って、忙しすぎるよなあ…と

つくづく思います。

子どもたちは冒険できる時間が無い。

このコロナで何度か田舎に引っ越して、ホームスクーリング…という

理想を思い描いてもみましたが、

何度考えても、それを現実にするだけの強い欲求が自分に湧き出てこないので、

やっぱり私たちは、この町中で、軸を立てて生きていくという様式を

選んで来たのだと思います。

どっぷりと自然の環境で、工夫して生きている人たちを見て指を咥えつつも(笑)

よくある様式の中で、その志をもって生きる、のがぴったりくるのだから、

敢えて逆らわず、ここで面白おかしく、そして幸せに

いつもチューニングし直して生きていくのがいいみたいです。

少なくても、今はそうみたい。

 

新型コロナのおかげで、必要な変容ができているといいけれど…

本当に必要なものを選び取る勇気を、私たちが持てますように。

 

某お笑いタレントの不倫ニュースが連日報道されていていますね。

普段は、不倫ニュースを見ても、

配偶者の心理的暴力にならないようにして欲しいと願う以外、

興味の外にあって、目にとまらないのですけど、

今回は、ちょっと第三者の心理的な助けがあった方がいい気がするなあ…などと

思いながらつい気になって見ています。

彼が(無意識だとしても)女性の尊厳を軽視していたとしたら、

実際は、彼自身も尊厳を傷つけているから。

 

 

他の芸人さんたちが彼について聞かれて、

「調子に乗っちゃったんだと思う」的な発言をしているような記事を

いくつか読んで、

調子に乗っちゃうって、どういうことなんだろうと改めて考えてみたりしました。

だって、私たちは調子に乗っちゃう瞬間があると思うのです。

「自分はイケる」「自分はイケてる」と思う瞬間です。

 

私たちの勉強会の中で、

先日、こんな話を教えてもらいました。

ネイティブアメリカンはバッファローの狩りにいくとき、

ガイドする者、勇敢な者、智慧を持つ者、怖がる者

この4人が居ることで、蕪辞に帰ってこられるというのです。

逆に言えば、帰還には、この4人が欠けてはならないというのです。

興味深いところは、怖がる、という役目の人が確立されていること。

私たちは、つい、恐れを臆病だと捉えて、

抑圧したり、無視したり、乗り越えようとしたりしてしまいますが、

怖がる者は必要とされ、きちんと居場所があるのです。

 

私はこの話を聞いて、

この4人の役割は自分の心の中にもあると思いました。

ただ、普段、私たちは自分の心の中の「恐れ」をジャッジして、

「恐れ」が居心地の悪くないように居られる椅子をなかなか用意できていないような、

そんな気もしました。

自分の心の中でも許せないものが、形となって目の前に現れたとき、

私たちは反応せずにいられるでしょうか。

 

これは、何も「恐れ」に限ったことではありません。

例えば、普段、無意識に嫌悪したり苦手だと思って見るものは、

私たちの内側に居場所を与えていないものです。

怒りっぽさ、聞き分けのなさ、しつこさ、騒がしさ、惨めさ、恥ずかしさ…

「その気持ちのまま、私の心にいていいよ」と言ってあげにくいものはあります。

ただ、その役割は、私たちがバランスを取るために、そして、生き抜いていくために、

とりあえず今は必要なものです。

 

その上で、「調子に乗る」ことを考えてみると、

ガイドする者、勇敢な者、智慧を持つ者、怖がる者のうち、

ガイドする者と勇敢なものだけが暴走して、ガツガツとスピードを上げて

狩りに行く感じかなあなどと、想像していました。

彼らだけでの行動は、誠実さが足りないときのアドバイスがなく、

身の程をわきまえない内容になってしまうのは仕方ありません。

ハウツーと前に進む勇気だけでは、自分の一部だけで生きているのと同じだと思います。

バランスを取るようになると、

エゴの欲求は際限なくやってくるうえ、ゴールもないことが分かって来はじめ、

いずれエゴではない選択肢を探すようになっていく…という流れのような気がしています。

 

私たちの人生をかけての願いは、統合だといいます。

それは、大きな源、大いなるものとの統合でもあり、

自分の中の分離を統合することでもあると思います。

たぶん、この二つは、違うように見えて、結局は同じもののはずです。

 

調子に乗ることも、私は、あっていいと思います。

自分も。他人も。

その瞬間を赦すことで、次のステップに私たちは進んでいけるはずです。

でも、調子に乗っている自分に気が付いたとき、

何かを忘れているような感覚を持てるように、

そして、それを思い出す時間を取るようにだけしていられたら、

私たちはまたバランスを取れるチャンスに恵まれます。

 

人生には、いろんなことがあって、

この身体で様々な体験を重ねていく計画をしています。

失敗した人を見て、私たちが責めることで、自分を追い詰めることがないようにと願います。

いつでも、愛に定まって、世界を眺められるように。

 

恋というのは、非常にやっかいな代物で、

一度落ちると寝ても覚めても、そこから抜け出せないし、

妄想するし、テンション高いし、浮き沈み激しいし、

自分でコントロールできません。

 

でも、

恋でもなかったら、

冬眠状態の感覚や

フリーズした感情や

凍り付いた身体や

冷めてしまった意識を

温めることはできないのかもしれないなあと思ったりします。

だから、私たちは否応なく落とされるのかもしれません。

 

ただ、その後もエゴと愛との選択は続くわけで、

独り占めしようとしたり、

支配しようとしたり、

相手に振り向いてもらえないと自分を攻撃したり、

エゴのゴールは果てしなく続きます。

 

一方愛から恋を見ると、

相手の幸せを願ったり、

自分の居心地良さを優先したり、

特別な恋愛からはどんどん解放されていくので、

楽だけど、一般的な恋とは違ってきます(笑)

恋の間は、この辺りは受け入れられないので、

エゴとの葛藤ですね。

 

それでも、燃えるような恋ではなくても、

本当にご縁のある人たちとは、ちゃんと愛は育ちます。

お互いをサポートし合えるような、本当の愛を体現できる関係は存在します。

相手があなたのものになるかどうかは分かりません。

というか、実はもともと、相手はあなたのものなのです。

一緒に居ても、居なくても。

 

肉体的にご縁があってもなくても、

相手とあなたは同じところに存在しています。確実に。

それなら、相手の幸せを願うことは、あなたの幸せを願うことでもあります。

相手を手放さないようにしなくても、

もともと、境界線がないほど溶け合っているのです。

肉体的なご縁があるかないかは、さほど大切なことではないように思います。

ご縁のある人に対しても、そう思っていて、

いわば、今回はこの人、この仲間とチームを組んだようだ、くらいの認識です。

 

手に入らないものを嘆くのは、実は無意味です。

あなたは、実は全てを持っているし、

一人でさえない。

今回の人生で、どんな体験をするようにしているかは分からないけれど、

自動運転なのですから、信頼して、今この瞬間、

自分を誠実な視点で、自分をご機嫌にするようにすればいいのです。

エゴによる代替物ではないもので、居心地の良さを

自分に提供していれば、きっと道は続いています。

居心地が悪いとか、何かが心に引っかかっているような場合は

そこから取り組んで、掃除していくと、晴れやかになります。

 

 

恋で呼び覚まされた自分の熱さ。

これを真実の愛に変えていくには、またもう少し取り組みが必要ですね。

誰もあなたのものにはならない。

あなたはすべてをすでに持っている。

 

これを深く理解する道を

私たちは進んでいます。