正直、

愛について熱く語る人に出会うと、やけどをしない程度の距離が欲しいと感じます。

スピリチュアルについて熱く語る人も同様です。

私は、こんな仕事をしながらも、実はリアリストなので、

悦に入っている人や、欲望をすり替わった形は分かってしまうのです。

その輝きを曇らせるものをスルーして、本人の美しさと出会いたいと思っています。

 

ただ、本人の美しさの中には、必ず愛があって、

そちらの愛とは出会いたいし、響き合いたいと願っているのです。

本人が熱く語る愛やスピリチュアルは、

結構エゴの思考によるものが多いので、

私はその熱気に当てられないようにやり過ごしながら、輝きを探します。

 

私が、セッションで、愛という言葉をできるだけ控え、

言葉を置き換えて説明したりするのは、

私が「愛」を連呼し過ぎて、本当に伝えたいことが伝わらなくなるのを避けたいからです。

愛が答えであることは分かっていて、

答えはいつも、それです。

複雑な問題のように見えるものも、必要なものは愛です。

でも、私たちはそのシンプルな答えではなかなか解決できないのです、面倒なことに。

グレードを落として、置き換えながら、その究極の答えを

受け取れるように成長している過程にいるのだと感じています。

 

私たちが愛であり、光であると言ったら、

どれくらいの人が受け取れるでしょうか。

私なら、胡散臭く感じて、そのページを閉じてしまうかもしれません。

騙されそうな恐れや、洗脳しようとしているのではないだろうかとか、

お金を巻き上げるためなのではないか、

入信のお誘いではないかとか、とりあえず確認作業をしてしまいます。

 

私たちはそれでいて、

愛がないときはすぐに分かります。

レジでの対応、バスの列、友人の一言、家族の目線、パートナーとの会話、

動物への扱い、法案の制定、お金や物の動き。

愛に基づいていると気持ちがいいのに、

ついエゴの誘いに乗せられて、そちらにも幸せがあると錯覚してしまう。

手に入れると、愛が得られるように思ってしまうのです。

 

 

私たちのバランスが取れている時、

自分の中に愛が確実にあることを感じられる。

その時、ようやく思い出せる。

私たちが平和で、心地よく、バランスの中に幸せを感じるとき、

私たちは愛がすでに自分の中に備わっていて、何も損なっていないことが分かる。

奪われることもなく、渇望する必要もないのです。

他から持ってこなくても、私たちは愛で満たされていたことを思い出すのです。

 

ですから、

私たちに必要な作業は、

思い出すために必要な作業をすることと、

平安なバランスの中に居るようにすることだけです。

それさえすれば、

愛を得ようとしなくてもいいことになります。

幸せに向かって、進まなくてもいいことになります。

愛について、熱弁を振るわなくてもいいし、学ばなくてもいい。

私たちは、ただ思い出すために必要なことを学び、

輪の内に心地よく居ればいいのです。

 

自分の中の平和を保つよう、一緒に心がけていきましょう。

輪のバランスの中に私たちが居ることを本当に理解すれば、

私たちは本来の自分の姿に気づけるようになるのだと感じています。