恋というのは、非常にやっかいな代物で、

一度落ちると寝ても覚めても、そこから抜け出せないし、

妄想するし、テンション高いし、浮き沈み激しいし、

自分でコントロールできません。

 

でも、

恋でもなかったら、

冬眠状態の感覚や

フリーズした感情や

凍り付いた身体や

冷めてしまった意識を

温めることはできないのかもしれないなあと思ったりします。

だから、私たちは否応なく落とされるのかもしれません。

 

ただ、その後もエゴと愛との選択は続くわけで、

独り占めしようとしたり、

支配しようとしたり、

相手に振り向いてもらえないと自分を攻撃したり、

エゴのゴールは果てしなく続きます。

 

一方愛から恋を見ると、

相手の幸せを願ったり、

自分の居心地良さを優先したり、

特別な恋愛からはどんどん解放されていくので、

楽だけど、一般的な恋とは違ってきます(笑)

恋の間は、この辺りは受け入れられないので、

エゴとの葛藤ですね。

 

それでも、燃えるような恋ではなくても、

本当にご縁のある人たちとは、ちゃんと愛は育ちます。

お互いをサポートし合えるような、本当の愛を体現できる関係は存在します。

相手があなたのものになるかどうかは分かりません。

というか、実はもともと、相手はあなたのものなのです。

一緒に居ても、居なくても。

 

肉体的にご縁があってもなくても、

相手とあなたは同じところに存在しています。確実に。

それなら、相手の幸せを願うことは、あなたの幸せを願うことでもあります。

相手を手放さないようにしなくても、

もともと、境界線がないほど溶け合っているのです。

肉体的なご縁があるかないかは、さほど大切なことではないように思います。

ご縁のある人に対しても、そう思っていて、

いわば、今回はこの人、この仲間とチームを組んだようだ、くらいの認識です。

 

手に入らないものを嘆くのは、実は無意味です。

あなたは、実は全てを持っているし、

一人でさえない。

今回の人生で、どんな体験をするようにしているかは分からないけれど、

自動運転なのですから、信頼して、今この瞬間、

自分を誠実な視点で、自分をご機嫌にするようにすればいいのです。

エゴによる代替物ではないもので、居心地の良さを

自分に提供していれば、きっと道は続いています。

居心地が悪いとか、何かが心に引っかかっているような場合は

そこから取り組んで、掃除していくと、晴れやかになります。

 

 

恋で呼び覚まされた自分の熱さ。

これを真実の愛に変えていくには、またもう少し取り組みが必要ですね。

誰もあなたのものにはならない。

あなたはすべてをすでに持っている。

 

これを深く理解する道を

私たちは進んでいます。

 

 

家族との関係性で問題を抱えている人はたくさんいます。

問題というほどのものではない小さな不具合だったり、

人生がそこで止まってしまうくらいの大きいものだったりします。

私は、人生がそこで止まってしまうくらいの大きな確執でした。

なにしろ、生まれてから家出をする19年間だったのです。

両親との問題を解決するまで、そこからさらにかかりました。

とても骨の折れる作業で、なんども諦めかけましたが、

自分の進むべき道は、そのチャレンジなしには進まないような気がしていて、

向きあってきたことを思い出します。

 

ただ、

そこまでの、いわば、自分の人生に立ちはだかるくらいの傷でないのなら、

あなたのチャレンジは親というカテゴリーには無いのかもしれないと思っています。

チャレンジのない人生なんて、

味の無いジャムくらい「なんのために?」と不思議に思うくらい

つまらないものなので

(まあ、本人はその時大変な苦労をしますが)

あなたのチャレンジを自分でどこに置いたのか、

今分からなくても追い追い分かるようになっているし、

そこは、その時が来たら、

「取り組んでみる」(もちろん休憩や逃避時間あり)

一択がお勧めです。

私たちはそのために来たのですから。

 

 

話は戻って、

両親との確執の昇華に、かなり時間をかけた私ですが、

今の私にとって

私の父親・母親は、肉体をもらった父母ではなくなってしまいました。

両親は健在なのですが、

彼らと居ても、本当に言葉通り

「肉体をくれた、肉体の両親」という感じなのです。

彼らを尊重し、愛していますが、

完全に彼らからもらった幻想とは違う位置で自分が見ている感覚なのです。

《両親》というものに抱いていた私の幻想は、今はすでになくなって、

彼らに求めることは全くなくなり、

だからこそ、とてもいい感じでいられるような気がします。

気楽で、敬愛を込めて付き合え、無理難題も深刻に取り合ったりせずに済みます。

 

私の本当の両親…というか、親は

彼らではないという感覚が今では私の中にあります。

ネイティブアメリカンの世界では、

母なる大地、父なる空、祖父なる石、祖母なる月…と、祈るのですが、

その感覚にとても近い感じです。

私の感じる親は神でも愛でも光でもあるので、

それぞれに分かれてはいませんが、

そこここに慈しんでくれる親はいて、

私にエネルギーを注ぎ込んでくれていると感じるのです。

それを感じられるのは、私が受け取れる状態を持続しているときですが。

(もちろん、うまく受け取れないときだってあります)

 

 

そこがうまく感じられるようになって、

「これほどの愛を、肉体の両親に求めていたということだな、私は」

と気づいて、愕然としました。

そりゃ、無理でしょう。

無理難題です。

エネルギー量的にも、愛の深さ的にも、エゴ的にも。

ただのクラスメイトに

「親になって私に愛情をください」

というくらいの無茶ぶりでした。

今思うと、ほんとすみません(笑)

そういう配役だったとはいえ。

子どもに生まれた私は、「誰に」「何を」求めるの部分を誤解していたのです。

それは、私のファンタジーを修正するために必要な幻想でした。

理解できるのに、こんなにも時間をかけてしまいました。

(私には体験すべきチャレンジでしたが!)

 

親との関係性に取り組んでいる人はたくさんいます。

取り組むべき価値があります。

親は、実は自分自身の投影であり、

赦すということを学ぶ、一番近い存在です。

そのチャレンジがある人に対して、私は心から応援するし、

支援もしていくつもりです。

取り組む勇気を、深く深く尊敬しています。

 

と、同時に、

その取り組みがある程度進んだら、もしくは平行して、

本当の親について、学んでいくというのがいいように思っています。

肉体の親は、あなたの幻想を実現してくれるとは限りません。

肉体の親も尊重すべき大切な存在ですが、

それと同じだけ、

スピリットの親も思い出していく必要があるのです。

 

あなたが、どこから生まれて、

誰に育てられて、

どこへ還っていくのか。

 

 

 

 

目に見えるものがすべてではありません。

実在しているように見えるものも、肉体をもつものも、

実は不確かなものかもしれませんよ?

 

オカルトでも新興宗教でもない

本当のことは、あなたが確かめ、感じていくしかないのです。

あなたの軸を定め、感じるセンサーを磨いていくには、

練習が必要です。

 

正直、

愛について熱く語る人に出会うと、やけどをしない程度の距離が欲しいと感じます。

スピリチュアルについて熱く語る人も同様です。

私は、こんな仕事をしながらも、実はリアリストなので、

悦に入っている人や、欲望をすり替わった形は分かってしまうのです。

その輝きを曇らせるものをスルーして、本人の美しさと出会いたいと思っています。

 

ただ、本人の美しさの中には、必ず愛があって、

そちらの愛とは出会いたいし、響き合いたいと願っているのです。

本人が熱く語る愛やスピリチュアルは、

結構エゴの思考によるものが多いので、

私はその熱気に当てられないようにやり過ごしながら、輝きを探します。

 

私が、セッションで、愛という言葉をできるだけ控え、

言葉を置き換えて説明したりするのは、

私が「愛」を連呼し過ぎて、本当に伝えたいことが伝わらなくなるのを避けたいからです。

愛が答えであることは分かっていて、

答えはいつも、それです。

複雑な問題のように見えるものも、必要なものは愛です。

でも、私たちはそのシンプルな答えではなかなか解決できないのです、面倒なことに。

グレードを落として、置き換えながら、その究極の答えを

受け取れるように成長している過程にいるのだと感じています。

 

私たちが愛であり、光であると言ったら、

どれくらいの人が受け取れるでしょうか。

私なら、胡散臭く感じて、そのページを閉じてしまうかもしれません。

騙されそうな恐れや、洗脳しようとしているのではないだろうかとか、

お金を巻き上げるためなのではないか、

入信のお誘いではないかとか、とりあえず確認作業をしてしまいます。

 

私たちはそれでいて、

愛がないときはすぐに分かります。

レジでの対応、バスの列、友人の一言、家族の目線、パートナーとの会話、

動物への扱い、法案の制定、お金や物の動き。

愛に基づいていると気持ちがいいのに、

ついエゴの誘いに乗せられて、そちらにも幸せがあると錯覚してしまう。

手に入れると、愛が得られるように思ってしまうのです。

 

 

私たちのバランスが取れている時、

自分の中に愛が確実にあることを感じられる。

その時、ようやく思い出せる。

私たちが平和で、心地よく、バランスの中に幸せを感じるとき、

私たちは愛がすでに自分の中に備わっていて、何も損なっていないことが分かる。

奪われることもなく、渇望する必要もないのです。

他から持ってこなくても、私たちは愛で満たされていたことを思い出すのです。

 

ですから、

私たちに必要な作業は、

思い出すために必要な作業をすることと、

平安なバランスの中に居るようにすることだけです。

それさえすれば、

愛を得ようとしなくてもいいことになります。

幸せに向かって、進まなくてもいいことになります。

愛について、熱弁を振るわなくてもいいし、学ばなくてもいい。

私たちは、ただ思い出すために必要なことを学び、

輪の内に心地よく居ればいいのです。

 

自分の中の平和を保つよう、一緒に心がけていきましょう。

輪のバランスの中に私たちが居ることを本当に理解すれば、

私たちは本来の自分の姿に気づけるようになるのだと感じています。

 

 

先日、子どもの誕生日プレゼント希望が「本人ご指定の本」だったので、

いろいろ調べていたら、高っ!そして巻数多っ!

そして、最近やたらに転生ものが多い。

子どもが好きなだけかと思っていたけれど、転生ものの題材はとっても増えているように思う。

うーん、これはどういう流れなんだろう〜

と、つい眺めてしまう癖が。

転生して、初めは不自由だけれど、どんどんスキルを得て、困難に打ち勝ち、万能になっていく感じ。

わりと共通している気がする。

私たちの無意識の願望なんでしょうね。

 

ファンタジーで楽しんでいるのだから、それはそれでいい感じがします。

ただ、にやりと笑って、

「実際に、転生(のような体験)はこの人生でもできるんですぜ」

と、こっそり伝えたくなるのです。

「ファンタジーでだけ楽しまずに、実際にやってみるのはどうかね?」

と、どこかの教授が不敵な笑みをこぼしながら、煽るように

ちょっと語りかけたくなるのです。

 

私たちは

何度でも生まれ変われるし、

何度でもやり直せるのです。

いえ、ただの自己啓発論ではなくて。

 

自分のファンタジーを作れば作るほど、それをまた生まれ変わってやってみなくてはならなくなる。

この人生で、何度も生まれ変わって、やるだけやってしまって、

転生のループから抜けるとか、どうでしょう。

そのためには、万能になりたくなるのは「エゴさん」の欲求だと知ることになるんですけどね…

 

出会いのおかげで私は

生と死のワークを繰り返し何十年も体験してくることができました。

人間には脱皮し、生まれ変わる力があることを実際に理解しています。

ファンタジーを読むのも面白いけれど、

あなたがどんな生まれ変わりをこの人生の中でしたのかの方が興味があります。

もし、この窮屈で不自由で、苦しいところから脱皮したいというなら、

そのチャンスを手助けする一つになれたらいいなあと思います。

 

知っていますか?

羽化する前のサナギの時期、

サナギの中身は青虫→蝶の間のような形ではなく…、

ドロドロらしいですよ。

 

 

 

私たちは次のステップの前には、一旦その形から出て混沌とした時期が必要なのかもしれません。

あなたは、もしかして、

今、変容中ではないですか?

あなたのストーリーを聞かせてもらいたいです。

 

どんな道をどんな風に進むかは、

本当に人それぞれだなあと、よく思います。

 

私が受け取っているメッセージと

その人がはまっている迷宮とが

あまりにも違う場合、大抵、私は口を閉じます。

今、それを伝えても、否定して、できない理由をたくさん見つけてしまって、

それがさらに遠のくことが分かっているから。

それは、僭越というものです。

宝物の場所の場所を教えても、意地を張って取りに行けなくなるのです。

宝物を受け取るには、それなりのプロセスが必要なのです。

 

本人も私も、社会的にも

「それは良くないことが起こっている」と共通認識があることでさえ

大いなるものの意図は、いつも次元を越えていて異なっている。

だから、本人がそれを気づきそうになっているときや

ヒントを得ようと真剣に向き合えるときだけ、

私は、わたしのできる範囲で、こちょこちょとお手伝いしています。

そうでないときは、時が来るのをグッと待ちます。

相手に見える光をただ信頼し続けることと、

フラクタルな作用のために私を癒やすことが

近道だと実感しています。

 

私たちには、失敗する自由があります。

やってみて、

いろいろやってみて

うまくいくときもあるし、

うまくいかなくて、初めて智慧を使うという手段を取れる。

トンネルの中で、あれこれ動いてみる自由が、

私たちにはあります。

 

私が注意深く見ているのは、

トンネルの中で見える光のレベルなのだなと感じています。

それこそ、私自身の様々な失敗を通して分かったことは

そこに人為的な作用があると、

いいところまでいくけれど、結局は望むところには辿り着かないということ。

光であっても、本物とは別物なのです。

 

 

本当に学び始めたら、

誰かのお手伝いは借りることができても、

誰かからもらう光はあなたのものになりません。

一歩先行く人は、先輩であり、同志であり、

あなたはそのおこぼれをもらっていても、本当のことは見えてこない。

自分自身が大きな光と繋がり、学んでいく必要があります。

 

自分に力が無いなどというのは嘘です。

私たちは、全員に力があり、巧妙な嘘を完全に信じているだけです。

自分のアンテナを信じ、それを磨いていくことで、

自我の手練手管に引っかからない瞬間を増やしていくことができます。

 

 

大いなるものと、あなただけしかいません。

私たちはあなたの分身です。

あなたが対峙し、あなたが選択し、あなたが光を思い出すだけです。

一人では難しいときに、

私たちの繋がりがそこで初めて役に立ちます。

 

私たちの場所からは確かに全容は見えないけれど、

全部が完璧で、うまくいっていることを、理解していけますように。