一つの考え方を盲信せず、学んだこととの共通点を俯瞰したり、

自分で実践して検証してみることが好きです。

というか、それが自分にとっての真実だと思っています。

誰かにこう言われたから、ここにこう書いてあるから、

それを信じ、守ることに、私は意味を見出せないのです。

 

ですから、茶道とか、向いていないな〜〜と苦笑したりします(笑)。

『日々是好日』の映画の主人公のように

「この動作にどういう意味があるのか」「なぜそうしなければならないのか」

「どういういわれがあるのか」をすぐに知りたがるからです。

その全てを型(形)として身につけることで、内側が自由になるのだと

もし理解できても、その型を疑問視せずにひたすら身につけられるかというと

ちょっと自信が無かったりします。(だから、茶道人をひたすらソンケー…)

まあ、これは私にこらえ性があまり無いだけとも言えますが。

 

 

ネイティブアメリカンの教えが好きな理由は、

彼らは、どうすれば、それが学べるかという道筋やシステムを教えてくれはしても、

こうしなさい、これを守りなさい、これをしないようにしましょうなどという教えを

私たちに指示せず、

自分で学んでいくようにと我慢強く後押しし、

私たちをコントロールしようとは一切していないことを感じるからです。

 

そこには、大いなるものが面倒を見てくれるという途方もない信頼と

大切なものは自分でキャッチするものだという、プロセスへの信頼が感じられるのです。

そこで、どのようなことを感じても、

それが誠実な態度で感じたことであれば、それはそれでOK。

それぞれの真実は、尊重され、すべては自分と同じように扱われます。

 

彼らは経典を持たず、

彼らの教えは精神的ではあるけれど、宗教ではありません。

彼らのセレモニーは、民族的な儀式を越えた、精神的なワークなのだと認識しています。

彼らは、そのセレモニーを使って、身綺麗な状態を保つようにし、

個としてのアンテナが鈍らないようにしていたのです。

それは、私たちみんなが、活用できる智慧であり、

自分にその浄化の方法がないのであれば、利用させてもらえるものです。

 

昨日、明石でネイティブアメリカンの智慧の輪というお話会の完結となる会がありました。

コロナで、オンラインお話会になったりしたのですが、

リアルでお会いし、感謝の歌の響きを味わい、

輪として共にあることの喜びを再確認したひとときになりました。

久しぶりにお会いするみなさんは、きっとコロナの時期にすべきことをしてきたんだなと

感じるくらい、一山越えたようなエネルギーに変わっていて、

さらには、最終回だったので、

とてもハッピーでふつふつと嬉しいような気持ちでした。

 

 

私たちは、

大いなるものの輪の内にいて、

その大いなるものは愛であり、私たちも愛なのだという

そんなシンプルなことを思い出すために、

肉体を持ち、さまざまな誘惑や欲求に惑わされたり、罪悪感と戦ったりしています。

そこには、壮大なドラマがあり、

かつ、それはシャボン玉の泡のように夢のようなもので、一瞬です。

でも、せっかくの機会、せっかくの肉体なので、

その体験を後悔がないように、思い存分やり尽くせたらいいなと思います。

自分の視点から、真実を見、ここにいてどのように生きられるか

それぞれの大実験です。

 

だからこそ、

どの体験も尊重されるべきで、上下関係はなく平等です。

自分の体験できる視点となるアンテナを磨いておくことは、

かなり役立つトレーニングになります。

自分をクリアにする方法はいろいろあると思いますが、

私の実感的には、ネイティブアメリカンのセレモニーは

かなりパワフルでインパクトがあり、エゴの介在を許さないゆえに、

自分の純粋なエネルギーを取り戻すための素晴らしい方法となってくれます。

彼らが遺してくれ、伝えてくれる方法にご縁のある方と

今後も分かち合っていければと思っています。

 

今年の夏至はパワフルなものになりそうですねー!!

私たちが変容できる勇気を携えて、進んでいくことができますように。

 

 

明石のお話会は、また10月から

第2クールをスタートさせます。日時はまたアップします。

私たち日本人は、彼らのような生き方をしている人と実際にはなかなか触れあえないことと、

セレモニーを日常に取り入れるのも大変なので、

こうした文字での勉強会が、バックグラウンドを理解して感じやすくするためにも

意味のあることだと感じています(いわば、型の基盤を勉強する感じですね)。

学ぶことによって、セレモニーでもさらに深まって感じやすくなるはずです。

全8回を学び終えたとき、

本当に何か土台となるものが自分の中に薄く積まれていることを感じてもらえると思います。

ご縁のある方と、また分かち合えますように!

 

7月4日(土)に、メディスンポーチを作るワークショップも開催します。

HPにも、イベントページアップしたいと思います。

 

 

こんなの作ります。

ペンダントタイプです。

 

小さな頃から、ただただ美しい物が好きでした。

空気の中にみえるキラキラした粒子、

触り心地のいい綺麗な色の布、

可憐に咲くスミレ、脈打つ自分の手のひら。

透き通るような歌声、光に透ける楓の葉。

 

 

ただ、大人になってから、

混沌としたものの中にも美しさが眠ることに気が付きました。

それは、星野道夫の写真からでした。

大地を這う木の根、雑草、まばらな野花。

整理されていない、雑然としたものの中から、見えたのは

生きていく力の美しさだったように思います。

それまで、整理され、整ったものが美しいのだと思っていた20代の私は

自分の美の価値観を変えられたのでした。

 

そこから、さらに時は経ち、

今はエルダーたちの中にある美しさにハッとすることが多くなりました。

形の造作に囚われない、奥から溢れ出す美しさに出会うと、

心から

「この人は美しい」

と思います。

 

ネイティブアメリカンたちは、

美の道を歩くことを大切にします。

自分が美しい道を歩くためには、自身を美しく保つことが大切なこともよく分かっていて、

そのために、浄化を欠かさず、バランスを取ることを意識します。

聖なる命の輪の内に、自分だけ多くを得たり、騙したり、へりくだったりすることは

美しくないことだと、私たちでも想像できます。

誰をも上としたり下としたりしない、彼らの目指す道は、

人として謙虚で、大いなるものと共にある、身を委ねた生き方で、

メディスンマンが、ハートに根ざす言葉を放つとき、

本当に、世界はその振動で神聖になるのを感じます。

 

 

身綺麗にすることは好きです。

おしゃれも楽しい。

けれど、それは、自分を繕うためではなく、

自分の美しさを表現するものでなければならないと思います。

私たちは、うわべだけの人間ではないし、

うわべだけに寄ってくる人たちを心から信頼することはできません。

他者を信頼するためにも、

私たちは、中身を磨き、あふれ出る美しさを許す作業が必要だと思っています。

 

私たちが醜いと勝手に判断しているものの中に美しさがあり、

意識無く手に取るものなかにも、いつも美しさがあります。

私たちは、いつも美しさに囲まれていて、

私たち自身も、美しさを内在させています。

それを感じるためには、私たちはあまりにも多くを持ちすぎ、

いちいち味わっていたら、大変になるために、

センサーをオフにしているのかもしれませんね。

 

ちょうどこの記事を書いているときに、

また今年も「世界で最も美しい顔」が発表されたという記事を読みました。

世界には、顔だけで判断してしまう人がたくさんいるのは、

全体ではなく一部で判断する人がたくさんいることを表しているのだと思います。

にじみ出る美しさを感じるには、

受け手の方の受信センサーの性能が試されるということでもあります。

逆に、あなたがもし、

様々なものの中に美しさを感じられたら、

あなたは自分の心の中に、それらの美しさを享受していることが分かります。

 

世界が、美しさで溢れていることを本当に理解したら、

私たちはきっと、それを破壊したりできずに、

その美しさの中に、自分の居場所を借りられることを感謝したくなります。

きっと、

そうして過ごすあなたは、とても美しい存在だと、私は思います。

 

某お笑いタレントの不倫ニュースが連日報道されていていますね。

普段は、不倫ニュースを見ても、

配偶者の心理的暴力にならないようにして欲しいと願う以外、

興味の外にあって、目にとまらないのですけど、

今回は、ちょっと第三者の心理的な助けがあった方がいい気がするなあ…などと

思いながらつい気になって見ています。

彼が(無意識だとしても)女性の尊厳を軽視していたとしたら、

実際は、彼自身も尊厳を傷つけているから。

 

 

他の芸人さんたちが彼について聞かれて、

「調子に乗っちゃったんだと思う」的な発言をしているような記事を

いくつか読んで、

調子に乗っちゃうって、どういうことなんだろうと改めて考えてみたりしました。

だって、私たちは調子に乗っちゃう瞬間があると思うのです。

「自分はイケる」「自分はイケてる」と思う瞬間です。

 

私たちの勉強会の中で、

先日、こんな話を教えてもらいました。

ネイティブアメリカンはバッファローの狩りにいくとき、

ガイドする者、勇敢な者、智慧を持つ者、怖がる者

この4人が居ることで、蕪辞に帰ってこられるというのです。

逆に言えば、帰還には、この4人が欠けてはならないというのです。

興味深いところは、怖がる、という役目の人が確立されていること。

私たちは、つい、恐れを臆病だと捉えて、

抑圧したり、無視したり、乗り越えようとしたりしてしまいますが、

怖がる者は必要とされ、きちんと居場所があるのです。

 

私はこの話を聞いて、

この4人の役割は自分の心の中にもあると思いました。

ただ、普段、私たちは自分の心の中の「恐れ」をジャッジして、

「恐れ」が居心地の悪くないように居られる椅子をなかなか用意できていないような、

そんな気もしました。

自分の心の中でも許せないものが、形となって目の前に現れたとき、

私たちは反応せずにいられるでしょうか。

 

これは、何も「恐れ」に限ったことではありません。

例えば、普段、無意識に嫌悪したり苦手だと思って見るものは、

私たちの内側に居場所を与えていないものです。

怒りっぽさ、聞き分けのなさ、しつこさ、騒がしさ、惨めさ、恥ずかしさ…

「その気持ちのまま、私の心にいていいよ」と言ってあげにくいものはあります。

ただ、その役割は、私たちがバランスを取るために、そして、生き抜いていくために、

とりあえず今は必要なものです。

 

その上で、「調子に乗る」ことを考えてみると、

ガイドする者、勇敢な者、智慧を持つ者、怖がる者のうち、

ガイドする者と勇敢なものだけが暴走して、ガツガツとスピードを上げて

狩りに行く感じかなあなどと、想像していました。

彼らだけでの行動は、誠実さが足りないときのアドバイスがなく、

身の程をわきまえない内容になってしまうのは仕方ありません。

ハウツーと前に進む勇気だけでは、自分の一部だけで生きているのと同じだと思います。

バランスを取るようになると、

エゴの欲求は際限なくやってくるうえ、ゴールもないことが分かって来はじめ、

いずれエゴではない選択肢を探すようになっていく…という流れのような気がしています。

 

私たちの人生をかけての願いは、統合だといいます。

それは、大きな源、大いなるものとの統合でもあり、

自分の中の分離を統合することでもあると思います。

たぶん、この二つは、違うように見えて、結局は同じもののはずです。

 

調子に乗ることも、私は、あっていいと思います。

自分も。他人も。

その瞬間を赦すことで、次のステップに私たちは進んでいけるはずです。

でも、調子に乗っている自分に気が付いたとき、

何かを忘れているような感覚を持てるように、

そして、それを思い出す時間を取るようにだけしていられたら、

私たちはまたバランスを取れるチャンスに恵まれます。

 

人生には、いろんなことがあって、

この身体で様々な体験を重ねていく計画をしています。

失敗した人を見て、私たちが責めることで、自分を追い詰めることがないようにと願います。

いつでも、愛に定まって、世界を眺められるように。

 

恋というのは、非常にやっかいな代物で、

一度落ちると寝ても覚めても、そこから抜け出せないし、

妄想するし、テンション高いし、浮き沈み激しいし、

自分でコントロールできません。

 

でも、

恋でもなかったら、

冬眠状態の感覚や

フリーズした感情や

凍り付いた身体や

冷めてしまった意識を

温めることはできないのかもしれないなあと思ったりします。

だから、私たちは否応なく落とされるのかもしれません。

 

ただ、その後もエゴと愛との選択は続くわけで、

独り占めしようとしたり、

支配しようとしたり、

相手に振り向いてもらえないと自分を攻撃したり、

エゴのゴールは果てしなく続きます。

 

一方愛から恋を見ると、

相手の幸せを願ったり、

自分の居心地良さを優先したり、

特別な恋愛からはどんどん解放されていくので、

楽だけど、一般的な恋とは違ってきます(笑)

恋の間は、この辺りは受け入れられないので、

エゴとの葛藤ですね。

 

それでも、燃えるような恋ではなくても、

本当にご縁のある人たちとは、ちゃんと愛は育ちます。

お互いをサポートし合えるような、本当の愛を体現できる関係は存在します。

相手があなたのものになるかどうかは分かりません。

というか、実はもともと、相手はあなたのものなのです。

一緒に居ても、居なくても。

 

肉体的にご縁があってもなくても、

相手とあなたは同じところに存在しています。確実に。

それなら、相手の幸せを願うことは、あなたの幸せを願うことでもあります。

相手を手放さないようにしなくても、

もともと、境界線がないほど溶け合っているのです。

肉体的なご縁があるかないかは、さほど大切なことではないように思います。

ご縁のある人に対しても、そう思っていて、

いわば、今回はこの人、この仲間とチームを組んだようだ、くらいの認識です。

 

手に入らないものを嘆くのは、実は無意味です。

あなたは、実は全てを持っているし、

一人でさえない。

今回の人生で、どんな体験をするようにしているかは分からないけれど、

自動運転なのですから、信頼して、今この瞬間、

自分を誠実な視点で、自分をご機嫌にするようにすればいいのです。

エゴによる代替物ではないもので、居心地の良さを

自分に提供していれば、きっと道は続いています。

居心地が悪いとか、何かが心に引っかかっているような場合は

そこから取り組んで、掃除していくと、晴れやかになります。

 

 

恋で呼び覚まされた自分の熱さ。

これを真実の愛に変えていくには、またもう少し取り組みが必要ですね。

誰もあなたのものにはならない。

あなたはすべてをすでに持っている。

 

これを深く理解する道を

私たちは進んでいます。

 

 

家族との関係性で問題を抱えている人はたくさんいます。

問題というほどのものではない小さな不具合だったり、

人生がそこで止まってしまうくらいの大きいものだったりします。

私は、人生がそこで止まってしまうくらいの大きな確執でした。

なにしろ、生まれてから家出をする19年間だったのです。

両親との問題を解決するまで、そこからさらにかかりました。

とても骨の折れる作業で、なんども諦めかけましたが、

自分の進むべき道は、そのチャレンジなしには進まないような気がしていて、

向きあってきたことを思い出します。

 

ただ、

そこまでの、いわば、自分の人生に立ちはだかるくらいの傷でないのなら、

あなたのチャレンジは親というカテゴリーには無いのかもしれないと思っています。

チャレンジのない人生なんて、

味の無いジャムくらい「なんのために?」と不思議に思うくらい

つまらないものなので

(まあ、本人はその時大変な苦労をしますが)

あなたのチャレンジを自分でどこに置いたのか、

今分からなくても追い追い分かるようになっているし、

そこは、その時が来たら、

「取り組んでみる」(もちろん休憩や逃避時間あり)

一択がお勧めです。

私たちはそのために来たのですから。

 

 

話は戻って、

両親との確執の昇華に、かなり時間をかけた私ですが、

今の私にとって

私の父親・母親は、肉体をもらった父母ではなくなってしまいました。

両親は健在なのですが、

彼らと居ても、本当に言葉通り

「肉体をくれた、肉体の両親」という感じなのです。

彼らを尊重し、愛していますが、

完全に彼らからもらった幻想とは違う位置で自分が見ている感覚なのです。

《両親》というものに抱いていた私の幻想は、今はすでになくなって、

彼らに求めることは全くなくなり、

だからこそ、とてもいい感じでいられるような気がします。

気楽で、敬愛を込めて付き合え、無理難題も深刻に取り合ったりせずに済みます。

 

私の本当の両親…というか、親は

彼らではないという感覚が今では私の中にあります。

ネイティブアメリカンの世界では、

母なる大地、父なる空、祖父なる石、祖母なる月…と、祈るのですが、

その感覚にとても近い感じです。

私の感じる親は神でも愛でも光でもあるので、

それぞれに分かれてはいませんが、

そこここに慈しんでくれる親はいて、

私にエネルギーを注ぎ込んでくれていると感じるのです。

それを感じられるのは、私が受け取れる状態を持続しているときですが。

(もちろん、うまく受け取れないときだってあります)

 

 

そこがうまく感じられるようになって、

「これほどの愛を、肉体の両親に求めていたということだな、私は」

と気づいて、愕然としました。

そりゃ、無理でしょう。

無理難題です。

エネルギー量的にも、愛の深さ的にも、エゴ的にも。

ただのクラスメイトに

「親になって私に愛情をください」

というくらいの無茶ぶりでした。

今思うと、ほんとすみません(笑)

そういう配役だったとはいえ。

子どもに生まれた私は、「誰に」「何を」求めるの部分を誤解していたのです。

それは、私のファンタジーを修正するために必要な幻想でした。

理解できるのに、こんなにも時間をかけてしまいました。

(私には体験すべきチャレンジでしたが!)

 

親との関係性に取り組んでいる人はたくさんいます。

取り組むべき価値があります。

親は、実は自分自身の投影であり、

赦すということを学ぶ、一番近い存在です。

そのチャレンジがある人に対して、私は心から応援するし、

支援もしていくつもりです。

取り組む勇気を、深く深く尊敬しています。

 

と、同時に、

その取り組みがある程度進んだら、もしくは平行して、

本当の親について、学んでいくというのがいいように思っています。

肉体の親は、あなたの幻想を実現してくれるとは限りません。

肉体の親も尊重すべき大切な存在ですが、

それと同じだけ、

スピリットの親も思い出していく必要があるのです。

 

あなたが、どこから生まれて、

誰に育てられて、

どこへ還っていくのか。

 

 

 

 

目に見えるものがすべてではありません。

実在しているように見えるものも、肉体をもつものも、

実は不確かなものかもしれませんよ?

 

オカルトでも新興宗教でもない

本当のことは、あなたが確かめ、感じていくしかないのです。

あなたの軸を定め、感じるセンサーを磨いていくには、

練習が必要です。