ワンネス体験は、貴重なもので、

実際のそれは、ピースフルでラブリーなものではなく、

深淵を覗くような、ゾゾ毛が立つようなものだと思います。

「わ〜♡」というより、

「お、おぉ…」というような、

戸惑いとクリアな意識下で自分の認識が否応なく広げられる感じ。

体験は、個人的なもので、なかなか言語化できないものだと思います。

 

その体験があるか無いかは、私たちの価値を証明するものではないと感じています。

ワンネス体験がなくても、

誠実に、気づきを得る道を歩む人は実際たくさん居ますし、

別にあってもなくても、変わりません。

誰かと比べるものでもないし、有る無しが基準でもありません。

 

あなたはもし、胎内記憶を思い出した人がいて、

その記憶はその人の価値を左右すると感じますか?

私は、ワンネス体験は、私たち本来の居場所を垣間見る体験だと感じています。

胎内記憶のように、私たちはすでにそれを体験し、記憶しているのですから、

ひょんなことから思い出すことは、不思議では無いと思うのです。

私たちは求めれば、偶発的にそうした体験が本来できるようになっていると思いますし、

同様に、その体験がその人の価値を決めるものではないと感じています。

 

むしろ、

垣間見た、というチャンスを自分の日常にどう活かしていくか、

その意識のまま、世界で過ごせるようにどのようにしていくか、

という大きなチャレンジがやってきたことを示しているのだと思います。

ワンネス体験をすることより、そのチャレンジの方がずっとずっと難しいし、

途方もない価値があります。

 

 

ワンネスを体験すると

その壮大さにびっくりし、理解が追いつかず、

体験を分かち合おうとして、言語化の難しさに頭を抱えるかもしれません。

理解が及ばないと、その体験を特別視して、

さらには、その体験をした自分をも特別だと感じるかもしれません。

きっと、それは私たちの特別性への欲求を満足させてくれるものでしょう。

 

でも、と、私は思います。

あなたにその体験がやってきているのは、

自分の中のエゴの欲求を満たすためではきっとないはずだと。

私たちは、チャレンジをするために、この身体を選び、この生を生きているはずです。

そのあなたが、ワンネス体験をしたなら、

それは、エゴではないものを選び取ることをガイドされているのではないかと思うのです。

 

私たちは、ワンネス体験を

いつも日常に観ることができるようになるために、

その体験をするのかもしれません。

あなたの内側の小さな変化が外でも同じように起き、

奇跡は、日常化します。

きっと、奇跡も特別なものではなくなります。

 

 

あなたに、もしその体験があるなら、

その体験が本物であるなら、

自分の思いが、エゴから来るものなのか、愛から来るものなのか、

すでに理解できるはずです。

 

エゴは私たちをとても巧妙に誘います。

でも、

いつでも、選択権は私たちにあります。

「一方を選ばないこと」も、選択をしたということになります。

あなたは、今どちらを選択しますか。

あなたが選ぶなら、ワンネス体験は、あなたの日常へと繋がっていってくれます。

一つの考え方を盲信せず、学んだこととの共通点を俯瞰したり、

自分で実践して検証してみることが好きです。

というか、それが自分にとっての真実だと思っています。

誰かにこう言われたから、ここにこう書いてあるから、

それを信じ、守ることに、私は意味を見出せないのです。

 

ですから、茶道とか、向いていないな〜〜と苦笑したりします(笑)。

『日々是好日』の映画の主人公のように

「この動作にどういう意味があるのか」「なぜそうしなければならないのか」

「どういういわれがあるのか」をすぐに知りたがるからです。

その全てを型(形)として身につけることで、内側が自由になるのだと

もし理解できても、その型を疑問視せずにひたすら身につけられるかというと

ちょっと自信が無かったりします。(だから、茶道人をひたすらソンケー…)

まあ、これは私にこらえ性があまり無いだけとも言えますが。

 

 

ネイティブアメリカンの教えが好きな理由は、

彼らは、どうすれば、それが学べるかという道筋やシステムを教えてくれはしても、

こうしなさい、これを守りなさい、これをしないようにしましょうなどという教えを

私たちに指示せず、

自分で学んでいくようにと我慢強く後押しし、

私たちをコントロールしようとは一切していないことを感じるからです。

 

そこには、大いなるものが面倒を見てくれるという途方もない信頼と

大切なものは自分でキャッチするものだという、プロセスへの信頼が感じられるのです。

そこで、どのようなことを感じても、

それが誠実な態度で感じたことであれば、それはそれでOK。

それぞれの真実は、尊重され、すべては自分と同じように扱われます。

 

彼らは経典を持たず、

彼らの教えは精神的ではあるけれど、宗教ではありません。

彼らのセレモニーは、民族的な儀式を越えた、精神的なワークなのだと認識しています。

彼らは、そのセレモニーを使って、身綺麗な状態を保つようにし、

個としてのアンテナが鈍らないようにしていたのです。

それは、私たちみんなが、活用できる智慧であり、

自分にその浄化の方法がないのであれば、利用させてもらえるものです。

 

昨日、明石でネイティブアメリカンの智慧の輪というお話会の完結となる会がありました。

コロナで、オンラインお話会になったりしたのですが、

リアルでお会いし、感謝の歌の響きを味わい、

輪として共にあることの喜びを再確認したひとときになりました。

久しぶりにお会いするみなさんは、きっとコロナの時期にすべきことをしてきたんだなと

感じるくらい、一山越えたようなエネルギーに変わっていて、

さらには、最終回だったので、

とてもハッピーでふつふつと嬉しいような気持ちでした。

 

 

私たちは、

大いなるものの輪の内にいて、

その大いなるものは愛であり、私たちも愛なのだという

そんなシンプルなことを思い出すために、

肉体を持ち、さまざまな誘惑や欲求に惑わされたり、罪悪感と戦ったりしています。

そこには、壮大なドラマがあり、

かつ、それはシャボン玉の泡のように夢のようなもので、一瞬です。

でも、せっかくの機会、せっかくの肉体なので、

その体験を後悔がないように、思い存分やり尽くせたらいいなと思います。

自分の視点から、真実を見、ここにいてどのように生きられるか

それぞれの大実験です。

 

だからこそ、

どの体験も尊重されるべきで、上下関係はなく平等です。

自分の体験できる視点となるアンテナを磨いておくことは、

かなり役立つトレーニングになります。

自分をクリアにする方法はいろいろあると思いますが、

私の実感的には、ネイティブアメリカンのセレモニーは

かなりパワフルでインパクトがあり、エゴの介在を許さないゆえに、

自分の純粋なエネルギーを取り戻すための素晴らしい方法となってくれます。

彼らが遺してくれ、伝えてくれる方法にご縁のある方と

今後も分かち合っていければと思っています。

 

今年の夏至はパワフルなものになりそうですねー!!

私たちが変容できる勇気を携えて、進んでいくことができますように。

 

 

明石のお話会は、また10月から

第2クールをスタートさせます。日時はまたアップします。

私たち日本人は、彼らのような生き方をしている人と実際にはなかなか触れあえないことと、

セレモニーを日常に取り入れるのも大変なので、

こうした文字での勉強会が、バックグラウンドを理解して感じやすくするためにも

意味のあることだと感じています(いわば、型の基盤を勉強する感じですね)。

学ぶことによって、セレモニーでもさらに深まって感じやすくなるはずです。

全8回を学び終えたとき、

本当に何か土台となるものが自分の中に薄く積まれていることを感じてもらえると思います。

ご縁のある方と、また分かち合えますように!

 

7月4日(土)に、メディスンポーチを作るワークショップも開催します。

HPにも、イベントページアップしたいと思います。

 

 

こんなの作ります。

ペンダントタイプです。

 

小さな頃から、ただただ美しい物が好きでした。

空気の中にみえるキラキラした粒子、

触り心地のいい綺麗な色の布、

可憐に咲くスミレ、脈打つ自分の手のひら。

透き通るような歌声、光に透ける楓の葉。

 

 

ただ、大人になってから、

混沌としたものの中にも美しさが眠ることに気が付きました。

それは、星野道夫の写真からでした。

大地を這う木の根、雑草、まばらな野花。

整理されていない、雑然としたものの中から、見えたのは

生きていく力の美しさだったように思います。

それまで、整理され、整ったものが美しいのだと思っていた20代の私は

自分の美の価値観を変えられたのでした。

 

そこから、さらに時は経ち、

今はエルダーたちの中にある美しさにハッとすることが多くなりました。

形の造作に囚われない、奥から溢れ出す美しさに出会うと、

心から

「この人は美しい」

と思います。

 

ネイティブアメリカンたちは、

美の道を歩くことを大切にします。

自分が美しい道を歩くためには、自身を美しく保つことが大切なこともよく分かっていて、

そのために、浄化を欠かさず、バランスを取ることを意識します。

聖なる命の輪の内に、自分だけ多くを得たり、騙したり、へりくだったりすることは

美しくないことだと、私たちでも想像できます。

誰をも上としたり下としたりしない、彼らの目指す道は、

人として謙虚で、大いなるものと共にある、身を委ねた生き方で、

メディスンマンが、ハートに根ざす言葉を放つとき、

本当に、世界はその振動で神聖になるのを感じます。

 

 

身綺麗にすることは好きです。

おしゃれも楽しい。

けれど、それは、自分を繕うためではなく、

自分の美しさを表現するものでなければならないと思います。

私たちは、うわべだけの人間ではないし、

うわべだけに寄ってくる人たちを心から信頼することはできません。

他者を信頼するためにも、

私たちは、中身を磨き、あふれ出る美しさを許す作業が必要だと思っています。

 

私たちが醜いと勝手に判断しているものの中に美しさがあり、

意識無く手に取るものなかにも、いつも美しさがあります。

私たちは、いつも美しさに囲まれていて、

私たち自身も、美しさを内在させています。

それを感じるためには、私たちはあまりにも多くを持ちすぎ、

いちいち味わっていたら、大変になるために、

センサーをオフにしているのかもしれませんね。

 

ちょうどこの記事を書いているときに、

また今年も「世界で最も美しい顔」が発表されたという記事を読みました。

世界には、顔だけで判断してしまう人がたくさんいるのは、

全体ではなく一部で判断する人がたくさんいることを表しているのだと思います。

にじみ出る美しさを感じるには、

受け手の方の受信センサーの性能が試されるということでもあります。

逆に、あなたがもし、

様々なものの中に美しさを感じられたら、

あなたは自分の心の中に、それらの美しさを享受していることが分かります。

 

世界が、美しさで溢れていることを本当に理解したら、

私たちはきっと、それを破壊したりできずに、

その美しさの中に、自分の居場所を借りられることを感謝したくなります。

きっと、

そうして過ごすあなたは、とても美しい存在だと、私は思います。